記憶に残る奇妙キテレツなスポーツイベント10件

記憶に残る奇妙キテレツなスポーツイベント10件

ワールドカップ、スーパーボウル、オリンピック、WPC、ウィンブルドンなど、スポーツは興奮と感動をたくさん与えてくれます。同時に、奇妙なスポーツの瞬間もこれまでにたくさんあるのです。それらはオリジナルで、ユニークなもの、奇妙なもの、興味をそそられるものがあります。だからスポーツって面白いのだけど。というわけで、過去にあった、奇妙奇天烈な10イベントをご紹介!


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10)花火ボクシング

花火ボクシングボクシングは古くから行われてきたスポーツです。そのスポーツをさらに活気づけようと、人々がさまざまな方法を試すことは驚くことではありません。1937年、いいアイデアだと思われたのが、試合後のライトショー、ではありません。花火です。しかも、試合後、でもありません。ボクサー達に取り付けられたのです・・・。

人の形に作られた金属フレームに花火を取り付け、各ボクサーに取り付けられました。それをさらにエキサイティング(?)なものにするために、ボクサー達は暗闇の中で戦うことになり、観客は花火大会を存分に楽しんだことでしょう。試合そのものはどうかわかりませんが・・・。ボクサー達の安全性に懸念があるのでは?と考えた方、ご安心ください。 彼らは石綿で作られた厚い防火服を着て保護されていましたから。

結果、驚くこともなく、この方法はボクシングの新しいアイデアとしては定着しませんでした。この試合は、1937年にロンドンで行われたのが最初で最後となりました。

 

9)一肢のクリケット

一肢のクリケット19世紀半ば、クリケットは最初の黄金時代を迎えていました。イギリスで皆が好む国家の娯楽になった後、クリケットは他の国に広まっていきました。1848年、レイシャムの修道院グラウンドで行われたクリケットの試合は、これまでの他の試合とは異なっていました。というのは、片腕の選手チームが片足の選手チームを迎え、試合をすることになったのです。これらのクリケット選手はすべて負傷した海軍の年金受給者で、グリニッジのロイヤル病院で生活していました。

選手達は大きな試合に備え、選手達は前夜に夕食をたらふく食べ、試合日にも十分にランチを取りました。さらに試合を祝って飲み会も開かれました。どちらかというとお祭り気分です。彼らにとって、これは楽しいことだったのもわかります。試合には2,400人以上が訪れ、ベッティングも行われました。片腕選手チームが有利だと考えられ、そして実際に片腕選手チームが勝利したのですが、選手達の誰もが最終的な得点に関心はありませんでした。

因みに、負傷した兵士達による試合はこれが初めてではありません。最初に行われたのは、1796年に負傷した水兵達によるものとなっています。

 

8)ヒトラーをあしらった選手

ヒトラーをあしらった選手マティアス・シンデラーは、オーストリア最高のサッカー選手の一人となっています。179cm、63kgという細い体型を生かして相手ディフェンダーの間をすり抜けてゴールを決めるプレースタイルから、「紙の男」と呼ばれました。シンデラーは1934年のワールドカップでは、オーストリア代表チームのキャプテンとして成功を収めました。

オーストリアは1938年のフランス大会でも予選を勝ち抜き、本戦進出が決まっていたものの、問題がありました。その時すでに、ナチス・ドイツはオーストリアを侵略して併合していたのです。そのために参加できなかったのです。

1938年4月3日、オーストリアチームが解散し、選手たちがドイツチームに入団する前に、オーストリアはドイツとの最後のサッカー試合を行いました。それは、オーストリアを祖国ドイツに戻すことを祝う、お祝いの試合となることを意図していたのです。「統一ドイツ」対「旧オーストリア」のこの試合で、シンデラーは旧オーストリアのキャプテンとして出場する条件として、チームは伝統的な白黒の代わりに、オーストリアの国色である赤と白のユニフォームを着用すると主張しました。この赤白ユニフォームは現在でも使われています。

さらに、ナチス関係者からオーストリアは試合に負けるか、引き分けになるように言われました。しかし、試合後半、シンデラーらの心に変化が起こります。ナチスの指示を無視し、シンデラー自身が最初のゴールを決め、ナチス高官からなるVIPボックスの前で祝いました。旧オーストリアは、ドイツを2対0で下したのです。

その後、シンデラーはドイツの代表チームに入団することを老齢と怪我のため引退したいと言って拒否しました。それから1年も経たないうちに、シンデラーは自宅で一酸化炭素中毒で死亡しているのを発見されました。事故死と発表されましたが、それが本当に事故かどうか、疑問に思う人は少なくありません。

 

7)KKK団 vs 黒人野球チーム

KKK団 vs 黒人野球チーム1925年6月21日、ウィチタのアイランドパークにある野球場では、ニグロリーグでプレイするアフリカ系アメリカ人チームであるモンロビアンズと、クック・クルックス・クラン(KKK団)チームのクランロッジのユニークな試合が開催されました。

KKK団といえば、白装束した過激人種差別団体。ニグロリーグはアフリカ系アメリカ人を中心とした野球リーグ。大リーグが白人のみで有色人種には壁があり、モンロビアンズはプロのチームではありませんでしたが、アマチュアチームで強いチームでした。1925年には、KKK団の影響力は弱まり始め、このことからKKK団は「あいつらアフリカ系アメリカ人野球チームを打ち負かしてやる」と思い、モンロビアンズは彼らの実力を示したいと思っていました。1番強いのはどちらか、を決定するための試合が行われたのです。

多くの両チームのファンが集まりました。この珍しい試合の危険性を考え、危険物の持ち込み禁止、手ぶらでの観戦と決められました。しかし危険なことは発生せず、試合は無事に行われ、モンロビアンは10-8でKKK団を下しました。

 

6)カークウォール・バ

カークウォール・バ

 

スコットランド、オークニー諸島の州都オークニーの首都であるカークウォールには、毎年カークウォール・バと呼ばれるフェスティバルがあります。バ(Ba)とは、フットボールの修正版であり、スコットランドのいろんな町でプレイされています。カークウォール・バのフェスティバルはバ・フェスティバルの中でも最大のものとして知られ、長い伝統とともに年2回行われています。

バの歴史についてははっきり分かっていませんが、少なくとも300年前に始まったと憶測されています。伝説によれば、カークウォール・バは、タスカーと呼ばれる長く突き出た鋭い歯を持つ、邪悪なバイキングの死を記念して行われたイベントのよう。タスカーは英語で牙を持つ動物という意味ですが、ある若者がこのタスカーを倒し、首を切り落としました。しかし、タスカーの鋭い歯が若者の足を傷つけ、致命的な感染を引き起こしてしまいます。最後の力を振り絞り、勇敢な若者はカークウォールに到達して、タスカーの頭を群衆に渡しました。

若者の死に人々は悲しみましたが、タスカーの終焉を祝って人々はカークウォールの通りでタスカーの頭を蹴り始めました。伝説によると、それがバが始まったきっかけとなっています。19世紀半ばから今日まで祝われているカークウォール・バのフェスティバルでは、2つのチームに分かれた何百人もの男性たちが、両者の決められたゴール地点までカークウォールの通りを1つのボールを奪い合いながら進む、少々危険な白熱したフェスティバルです。


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5)ナイアガラ渓谷の綱渡り

ナイアガラ渓谷の綱渡り

 

大胆な曲芸は、いつもハラハラドキドキと共に大勢の観衆を魅了します。これらの曲芸のうち、綱渡りは危険なものの一つです。 19世紀半ば、最も危険な綱渡りをした、チャールズ・ブロンディンという人物がいます。

1955年にアメリカに来たブロンディンは、彼に名声と財産をもたらしたアイデアを思いつきました。ナイアガラの滝に一本の綱を通して綱渡りをする、というもの。そして、ニューヨーク・タイムズに一本の広告を打ちました。この曲芸を見るために25,000人が集まりましたが、ほとんどは男が滝に落ちるのを見に来たと予想されました。しかし、1859年6月30日、ブロンディンはナイアガラ渓谷を綱張りで初めて歩いた人になりました。それだけではなく、彼は途中で止まって座り、ワインを飲みました。カナダ側に到着した後、20分間休息し、その後また渡って来た綱を戻りました。

毎回観客に衝撃を与える新しい方法を見つけたブロンディン。綱を後方に歩いたり、目隠しして渡ったり、マネージャーを背負って渡ったり。ある時などは、調理器具と食材を持って渡り、途中で止まってオムレツを作り食べたこともあります・・・。

 

4)チャーマーズ賞

チャーマーズ賞1910年には、アメリカ人の好きな娯楽の2つが一つになりました。それは、野球と自動車。チャーマーズ・オートモービル・カンパニーの所有者であるヒュー・チャーマーズは、チャーマーズモデル30をリーグの打撃チャンピオンに授与することにしました。

シーズンが終わるまで、デトロイト・タイガースのタイ・コブとクリーブランド・ナップスのナップ・ラホーエの2人の選手の間には、激しい競争が繰り広げられていました。2試合を残した時点で、コブは打率平均.385でリードしていました。コブは勝負が決まったかのように、この残りの競争を眺めることに決めました。一方、ラホーエはクリーブランドのセントルイス・ブラウンとの最後の試合で、ほぼ完璧な試合をしました。驚くくらいの打撃をしたのです。ところがラホーエは、相手チームの助けを借りていたのでした。タイ・コブはリーグで最も嫌われ者の選手でしたが、ラホーエはまったくその逆。チーム名でさえも、彼の人気のため、ラホーエ・ナップのナップを使ってナップスに改名されたくらいです。

セントルイス・ブラウンズのマネージャー、ジャック・オコナーは、ラホーエがヒットやバントをしやすいように試合を助けていました。その結果ラホーエは平均.384で終わりましたが、論争がこの出来事全体を囲みました。コブはプレーしていないと批判され、ブラウンズは相手チームの選手を助けたと批難されました。結果、コブが公式打撃チャンピオンとしましたが、チャーマーズはラホーエの人気を利用するためにそれを引き分けと宣言し、両選手に車を与えました。1989年になって、コブのその時の記録に間違いがあり、2シーズン多くヒットを獲得していたことが判明し、彼の本当の平均は.383だったことが分かっています。

 

3)1904年オリンピック

1904年オリンピック

 

セントルイスで行われた1904年のオリンピックマラソンは、歴史の中で最も奇妙なスポーツイベントの一つです。その時の状況を聞くと、まるでコメディのようです。まず、試合の開催場所に関しての議論から始まりました。もともとこのオリンピックは、シカゴで開かれることにほぼ決まりつつありました。しかしセントルイスは同時期に開かれることになっていたワールドフェアで、オリンピックがセントルイスで行われなければ、彼らはワールドフェアで独自のスポーツイベントを企画して、オリンピックの邪魔をすると脅したのです。そして、セントルイスの脅しは効きました。

運動選手の多くはアメリカ人でした。特に、木製の義足を持ちながら6つのメダルを獲得した体操選手、ジョージ・アイサーは印象的とでもいいましょうか。32℃の猛暑となったこの日、給水場は19㎞地点に一か所のみという無茶なマラソンとなり、参加したランナーたちのほとんどは途中で倒れていきました。フレッド・ロルツが優勝しましたが、レースの18km(11マイル)を車で走ったことが明らかになり失格。そこで真の勝者はトーマス・ヒックスとなりましたが、パフォーマンスを向上させる刺激剤を服用しつつ、途中で倒れそうになりながら関係者2人に抱えられてのゴール。しかし、奇妙なのはこれだけではありませんでした。

キューバの郵便配達員であるアンダリン・カルバヤルはマラソン経験もなく、普段着でレースに参加。40時間もの間、ろくな食事も取ってなかった彼は果樹園へ寄り道し、青いリンゴを食べ腹痛を起こして途中休憩。それでも、彼は4位でゴール。レン・タウという別のランナーは、オリンピック初の黒人アフリカ人でした。彼が9位でゴールできた理由は、野良犬に追われ必死で逃げたからだったのです。

 

2)ツール・ド・不名誉

ツール・ド・不名誉最近ではめっきり不正行為と結びつけられているツール・ド・フランスですが、実は開催当初から不正行為はこのロードレースと強く結びついていたのです。初レースは1903年、フランスの新聞L'Autoが読者層を増やすために企画されたものでした。モリス・ガランが優勝し、1904年に再びレースに参加しましたが、露骨な不正行為が蔓延していました。実際、ツール・ド・フランスの創設者、アンリ・デグランジュは、「あまりにもうんざりし、不満を抱いていて、落胆している」ので、将来の開催をキャンセルすると述べました。

1904年のレースでは、88人が参加し、27人が完走しました。しかし、15人のみが公正にレースを行っただけで、再び優勝したモリス・ガランを始め、4位までのサイクリストを含むほぼ半分が列車などを使った不正行為で失格となりました。その頃サイクリストは何でも服用することができたので、ドーピングスキャンダルはありませんでした。実際、アルコール、コカイン、クロロホルム等は数十年もの間、サイクリストの一般的なダイエット方法でした。

ほとんどの不正行為は、近道、車や電車での移動、道路に釘を投げるなどの方法で行われ、また、地元のサイクリストを応援する者たちにより、サイクリストたちがその地域を走る際、地元以外のサイクリストを負傷させるという事件も起こりました。サン・テティエンヌでは、100人もの人々がアントワーヌ・フォアールを優勝させるため、石とこん棒でサイクリスト達を襲う事件が発生しました。ジョヴァンニ・ガルビは意識不明になるほど殴られ、彼の指は折れていました。それ以来、多くのサイクリストはリボルバーで武装していたほどです。

 

1)猿の精巣ドーピング

猿の精巣ドーピングウォルバーハンプトンワンダラーズは、1877年に設立された伝統あるイギリスのサッカークラブです。フットボールリーグの創設者の1人であり、後にUEFAチャンピオンズリーグになったヨーロピアンカップを確立した、非常に影響力のあるクラブです。フランク・バックレーが監督し、クラブは1939年のスポーツ史上で最も奇妙なドーピングスキャンダルを起こしました。

バックレーは、外科医のセルジュ・ボロノフによって考えられた、猿の精巣から人の精巣の組織を移植して若返りを目的とした革新的な技術に関して聞いていました。実際に彼の治療法は、1920年代から30年代にかけて非常に人気があったのです。バックレーは自分の選手達にそれを受けさせ、この技術に関しては規則がないことを主張し、ドーピングではないとメディアや他のクラブに語りました。

すぐにバックレーの選手達は、スタミナと体力面が改善されたように見えました。しかし、どのような変化もプラセボ効果(くすりを飲んだという安心感が、体にひそむ自然治癒力を引き出すこと)の可能性がありました。それでも他の多くのサッカークラブは、すぐにこの技術を採用したのです。しかし、いくつかのクラブは下院へ、サッカー選手に猿の睾丸を使用することは許されるのかを議論しなければならないと強く抗議しました。結局のところ、この行為は賛成されず、ボロノフの技術は嘲笑されることとなりました。


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