ジャパカジスタッフも驚いた!ギャンブルで人生逆転のストーリー10♪

プロフェッショナルポーカープレイヤーのPhil Ivey(フィル・アイビー)は、2014年4月に9百万ドル(約9億9千万)の賞金を手にしましたが、これで驚いてはいけません。ギャンブルの世界には、もっと大きな勝利を納めた人たちがたくさんいるのです。

その中でも特に印象的なストーリーを持つ10人を、今日はご紹介します♪

ストーリー1:メガバックスの悲劇


ジャパカジでも何度か紹介しているので知ってる方も多いと思いますが、ジャックポットを当て、悲劇の人生を歩むこととなったこの方を抜きに話は始められません。

Cynthia Jay-Brennan(シンシア・ジェイ・ブレナン)は、ラスベガスのモンテカルロカジノでカクテルウェイトレスをしていました。

2000年1月26日、シンシアは婚約者の母の誕生日を祝っている最中、莫大な額のジャックポットで知られるメガバックスを回してみることにしました。その9スピン目、なんとシンシアは歴史上2位となる34,959,458.56ドル(約38億4千万)の高額ジャックポットを獲得したのです!

2週間後、婚約者のテリーと結婚式を挙げ、誰もが羨む人生が待っていると思われました。しかしその4週間後、シンシアは自力で再び歩くことはできなくなってしまったのです。

前科16犯の酔っ払い運転手が、信号待ちしていたシンシアのカマロに激突したのです。この事故で同乗していた姉は亡き人となり、シンシア自身も胸から下が麻痺状態となってしまいました。新郎と一緒に世界を旅する予定が、自分自身で食事を摂ることも、自分の髪を梳かすこともできない車椅子の生活となってしまったのです。

この事故で飲酒運転をしていたクラーク・モースは、最低28年の懲役を受けました。シンシアは、再び歩くことができるなら、そして、姉を取り戻すことができるなら、メガバックスの賞金を全て返金すると言います。

ストーリー2:クラップスのビギナーズラック


あるクラップス初心者の幸運は驚異的なものでした。クラップスはいろんな賭け方のオプションがある、ペースの速いゲームです。ルールを知らないと、あれよあれよと速攻で資金が消えてしまう恐れがありますが、反対に、ただサイコロをランダムに投げ、たちまち大きな勝利を収めることもできるゲームなのです。

2009年、Patricia Demauro(パトリシア・デマウロ)は、アトランティックシティのボルガータ・カジノのクラップステーブルに近づいていきました。 パトリシアはすでに孫も数人いるおばあちゃん。まずパトリシアの友人が簡単に遊びかたを説明しながらプレイし、そして次はパトリシアがダイスを握りました。 そこから信じられないことに、彼女はなんと154回も連続して勝利したのです!

パトリシアはいくら勝利したのかは決して明らかにしませんでしたが、使ったのはわずか10ドル。もっとも低い配当だったとしても、その50倍の額を勝利したのは間違いありません。

パトリシアのストーリーは、勝利した額はさておき、154回連続で勝利した事実がびっくり!ですね。

ストーリー3:オタクはラスベガスを打ち負かす


2008年の映画、21は、大学生達が数学を使ってブラックジャックで勝つ方式を考案した架空の物語。それを実際に実行した学生達がいます。映画と全く同じではないものの、彼らの考えは同じでした。

「オタクはラスベガスを打ち負かす」

マサチューセッツ工科大学/MIT(全米屈指のエリート名門校の1つ)ギャンブラーチームは、カードカウンティングを実行しました。これは、今後のカードがある数より高いか低いか(絵札かそうでないか等)を明らかにするテクニックです。

彼らは次のカードの確率を予想し、ベットを上げました。映画Rain Manを観た人も多いでしょう。あの映画のように、カードをカウントするのは天才でなくてもできるんです。6〜8デッキのカードを数えるのは難しすぎることではありません。しかし、ベットを正確に上げ下げし、その結果多額のお金を儲けたら、カジノスタッフはそれに気づき追い出される可能性があります。

MITのこの学生チームは役割分担し、この問題を回避しました。数人のメンバーがカードをカウントし、それを3人目のメンバーに知らせ、ここぞという時にベットを上げる。同じテーブルに他のメンバーもおり、こちらは常時大きなベットでディーラー達の注意力を引く役ですが、最終的に勝ち負け無し程度のプレイをしました。

この方法でMITチームは5年もの間に、5億という額を稼ぎました。最終的にはカジノ側に見破られ(カジノ側はチームメンバーとその手段が明らかになるのに5年もの歳月を費やしたのですが)、出入り禁止になりましたが、それまですでに十分稼いでいた彼らは、そのお金を使って投資会社を設立したそうですよ。

ストーリー4:ワンマンブラックジャックマスター


ある1人の男性ギャンブラー、 Don Johnson(ドン・ジョンソン)は、2011年の6ヶ月間、MITチームよりも優れたパフォーマンスを行いました。ドンはカードをカウントする代わりに、カジノと特別なルールを交渉して多額の賞金を手に入れたのです。

ドンが行ったのは、まず有利なゲームルールを持つカジノを探しました。カジノによって、ブラックジャックでは細かなルールが異なります。例えば、1つのスプリットしか許されない、スプリット・エースは禁止、手が9、10、または11の時のダブルは禁止、等ですが、ドンが好むルールを持つブラックジャックテーブルのカジノを見つけ、ハイローラーということを餌に4つのハンドまでスプリットができる、好きな手でダブルできる、など、加えて有利な交渉を持ちかけたのです。

さらに、いくつかのカジノでは10%の損失をハイローラーには払い戻す、というキャッシュバックを提供するカジノもあります。ハイローラーを引き留める為のカジノ側の手なのですが、ドンはこれを、20%のキャッシュバックにするよう交渉。例えばドンが50万ドルを賭けて勝利した場合、それはすべてドンの懐へ、負けたとしても10万ドルは戻ってくるということ。

そして、2万5千ドルまでのベットの許可を交渉しました。これは通常の状況下では全くプレイヤーに有利となる権利ではありませんが、ドンの場合には大きな助けになりました。

これらの条件の結果、ドンは3つのカジノから半年で1,500万ドル(16億5千万)を獲得したのです!ドンは「アトランティックシティだけじゃなく、ラスベガスのどこのカジノでも私はもう歓迎されないよ。」と言っています。

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ストーリー5:孫の将来に賭ける


祖父母のほとんどは孫のことを可愛がっているものですが、孫の将来について賭けるという人はそんなに多くないでしょう。

Peter Edwards(ピーター・エドワーズ)は、3歳の孫が、フットボールスターになると常日頃考えていました。そこで、孫のハリー・ウィルソンがウェールズ・ナショナル・フットボールチームでプレーするということに£50(約7,300円)を賭けました。(ブックメーカーではいろんなことを賭け事にできます)ブックメーカーはピーターのこの賭けに、2,500倍のオッズを与えました。

2013年10月、ウェールズ代表はワールドカップ予選でベルギーと対戦し、 ウェールズとベルギーは1対1の引き分けとなっていました。そして試合後半、16歳のハリー・ウィルソンがデビューしたのです!

誰よりも驚いたのは、ピーターが賭けを持ち込んだブックメーカーでしょう。ハリーはナショナルプレーでウェールズを代表する最年少の選手でした。 このハリーの出場で、祖父の£50の投資は£125,000(約1,800万)という大金に変わりました。孫を信じるおじいさんの微笑ましい出来事、ですね。

ストーリー6:月に願いを


1964年、David Threlfall(デビット・スレルフォール)は英国のブックメーカー、William Hill/ウィリアム・ヒルに、「人が7年以内に月面を歩く」という賭けのオッズは何倍になるのか? という手紙を書きました。そしてWilliam Hillの代表者は、デビットにまさかのオッズ、1,000倍を提示しました。

その当時はまだ、本当にリスクのある賭けだったのです。ちょうど少数の人々が初めて宇宙に行っただけで、月面を歩くなどということはまだまだ遠い話に思えたはずです。それでもデビットは、月面歩きに£10を賭けました。正確な賭けは「1971年1月以前に、地球上のどの国からの男、女、または子供が、月、もしくは地球から同等の距離にある他の惑星、星、または天体に着陸する。」というものでした。

時間が経つにつれ、この賭けの成功の可能性が起こりえることとなってきました。人々はWilliam Hillに集まり、この賭けに参加し始めたのです。 デビットはJFKの「10年以内に人が月を歩く」という言葉を信じていたのです。

そして、ついにその言葉が現実となりました! デビットはテレビスタジオで、アームストロングが月に到着し、人類で初めて月面に降り立つのを見ていました。デビットはもちろんその場で£10,000(約145万円)の小切手を受け取りました。

ストーリー7:アマリロ・スリムのピンポン勝負


Thomas Austin Preston(トーマス・オースティン・プレストン)は、彼の故郷と彼のウエストサイズの細さからAmarillo Slim(アマリロ・スリム)というあだ名で呼ばれている、ポーカーの腕といろんな命題で賭けをすることで知られるプロギャンブラーです。

アマリロは1972年ワールドシリーズ・オブ・ポーカー(WSOP)メインイベントで優勝し、これまでにオマハでの2本を含む4本のWSOPブレスレットを受賞しました。アマリロがWSOPで最後に優勝したのは1990年ですが、2005年のWSOPで開催されたポットリミットオマハ2500ドルのイベントで、Phil Ivey(フィル・アイビー)に次いで2位となっています。

アマリロはポーカープレイヤーとしても優秀ですが、どちらかというと、彼の非正統な賭けの方で有名かもしれません。アマリロの行った賭けの中には、1939年ウィンブルドン・チャンピオンのBobby Riggs(ボビー・リッグス)との卓球戦という有名なものもあります。

リッグズとのピンポン試合では、ラケットをアマリロが決めた他の物と変えて勝負することができました。賭け金は$10,000(約110万円)、試合当日、アマリロが選んだラケットの代わりはフライパンでした!  実はアマリロ、試合前に数ヶ月にわたってフライパンで練習していたのです。

リッグスは慣れていないフライパンで始めは苦戦していましたが、時期にコツを掴んできたようでした。が、十分に慣れる時間はなく、最終得点は21-8、でアマリロが賭けに勝利しました。

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ストーリー8:モンテカルロで銀行を破った男


カジノで「銀行を破る」とは、カジノを破産させることを意味するわけではありません。その意味は、テーブル上のすべてのチップを勝ち取ることを意味します。

Charles Deville Wells(チャールズ・デヴィル・ウェルズ)は、1891年にモンテカルロで銀行を破り、純然たる幸運によって数百万フラン(現在の50万ドル=約5千5百万円)を獲得しました。

実はチャールズ、詐欺師でした。彼はミュージカル縄跳びの資金調達を主張して、投資家から400ポンドを引き出しました。ところがそのお金をモンテカルロで贅沢な時間を過ごすために使ってしまいました。なんて奴・・・

そこでチャーリーは、ルーレットを試すことにしたのです。どういうわけかチャールズ、11時間のプレイで正統に100万フランを上回るほど勝つことができたのです。信じられないほどのルーレットの幸運にもかかわらず、チャールズの運は尽きてしまいます。それから間も無く、彼はモンテカルロで勝利したすべてのお金を失ってしまいました。悪銭身につかず、ですね。

その後、英国で逮捕され、詐欺のために刑務所に8年間入り、出所した後も2回逮捕され、亡くなったときは一文無しだったようです。安らかに眠りたまえ・・・

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ストーリー9:50ドルから40万ドルまでの旅路


人々の夢は、ラスベガスに小銭を持って乗り込み、それをひと財産に変えることです。

Archie Karas(アーチー・カラス)はギャンブルの歴史の中でも、信じられないほどの幸運に恵まれました。アーチーは1992年、ポケットに50ドルを持ってラスベガスに乗り込みました。よくある話ですが、アーチーはその50ドルを簡単に失って・・・は、いませんでしたっ!

実はアーチー、ロサンゼルスのハイステークス・ポーカー・ゲームで2百万ドル(2億2千万円)という巨額の損失を負ったばかりだったのです。そのため、ラスベガスに来たときにはわずか50ドルしか持っておらず、ホースシューカジノでばったり出会った友人に$10,000(約110万円)を借り、それを資金にハイステークスのRazzをプレイしました。

この珍しいポーカーの変形ゲームでは、最悪のハンドを持つ者の勝利となります。アーチーは最近の自分の運勢を振り返ると、これが今の自分にとってピッタリなゲームであると考えました。そして驚くことに、友人から$10,000の借金をした3時間後、50%の利子を付けて友人に借金を返済し、さらにゲームを続けるのに十分な額を稼いでいました。

アーチーの幸運はそれから3年間続き、4,000万ドル(約44億円)を稼ぎました。彼がどのように稼いだのか、が凄いところ。アーチーは7カードスタッドで、腕のあるポーカープレイヤーに勝利することによって7百万ドルを1,700万ドルにしました。さらに100万ドルを上回る9ボールプールを網羅し、プレイするすべてのゲームに勝っていったのです。もちろん時には負けるゲームもありましたが、それでも負けをいつも取り戻し、失った額よりもさらに多くの額を獲得していきました。

ところが、そんなに甘くないのが人生です。アーチーの主な下り坂は、気をつけなければならないゲーム、クラップでした。彼は3週間で1,100万ドル(約12億円)を失います。そしてバカラで損失を取り戻そうとして更に1,700万ドルを失い、その後ポーカーで2百万ドルを失い、損失は1ヶ月足らずで3,000万ドル(約33億円)にも達しました。

しばらく休暇で母国のギリシャに帰国した後、アーチーはラスベガスに戻り、残りの1,000万ドル(約11億円)にさよならを告げました。これはギャンブルの教訓なのでしょうか?

それから3週間後、アーチーは懲りずに4万ドル(約440万円)を借り、100万ドル(約11億円)を勝利しました。人生、山あり谷ありと言いますが、まさにアーチーのこと。そしてこれらの出来事は、アーチーが伝説となった要因なのです。

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ストーリー10:ショーン・コネリーの17


Sean Connery(ショーン・コネリー)はギャンブルを身近に育ち、若い時には賭博場に父と一緒に通っていました。その「癖」はショーンから抜けきらず、俳優になった後も彼はギャンブルを続けました。

1963年、ショーンはイタリアのアルプスのカジノにいました。彼はルーレットテーブルへ行き、チップを17に置きました。そしてそれははずれ。彼はもう一度17に賭けましたが、またはずれました。3回目のスピンで、ようやく17にボールが入りました。ショーンは勝利したチップをそこに残し、35倍の賭けは再び当たったのです! 

2回連続してヒットした後、彼はまだ勝利したチップをそこに残していました。そして信じられないことに、3回目もボールは17に入ったのです! 初代ジェームス・ボンド氏は、17ミリオンリラ(約146万円、現在の市場では約2,380万円)をたった3回のルーレットで得たのです。 3回目の17の後、ショーンは勝利金を集めて涼しい顔で去って行きました。

一時期、ディーラーにルーレットで最もよくベットされる数字は? と尋ねると、答えは 【17】だった時期がありました。ショーンは1963年に見事17を3回もヒットさせましたが、1971年にも再度ヒットさせています。それは、Diamonds Are Forever/007 ダイヤモンドは永遠に、の映画のシーンで、ですけどね♪

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